第11話 公立医学校と鷗外の『雁』〜「明治十三年の出来事」の意味〜

位置をずらして復元された鉄門

ところで、「鉄門」はそれから40年ほどするとなくなってしまう。そのため近くにある龍岡門(現在路線バスが出入りする門)が鉄門の役割を肩代わりするようになり、この門が「鉄門」であると混同されるようになった。

たとえば中野重治の『むらぎも』は大正末・昭和初頭の時間設定であるから鉄門はすでにない。なのに「二人は鉄門を出て、そのままぐるりとまわって大学の裏側を逆にたどりはじめていた」とある。この先無縁坂へ向かうのだが、真の鉄門(すでに存在していないのだが)から出たとすれば、「ぐるりとまわって」ということはない。ここで言う「鉄門」とは「龍岡門」のことである。現在でも龍岡門から出て無縁坂へ行くには、門の外ですぐに左折して大学の外壁に沿って左折と右折を繰り返すことになる。それを「ぐるりとまわって」と表現したわけである。

鉄門の復元を伝える「東大病院だよりNo.54」(2006年8月発行)でも「龍岡門のことを鉄門と思っている人が多いが、間違いである」と書かれているから、つい最近までこの混同は続いていたようだ。

ところでこの「東大病院だよりNo.54」には「いつの間にか鉄製の扉は消えた。その理由は諸説あり不明である」とあるが、理由は単純である。門のある場所が内外の境界上ではなくなったからだ。

まず医学部本館が消える。鉄門の正面にあった医学部本館は明治44年に赤門脇の、現在「赤門総合研究棟」があるところに移築されて史料編纂掛、のち営繕課の建物として利用された。本館がなくなったこの時点で鉄門には「医学部正門」というシンボリックな役割は相当減殺されたと思われる。

次に大正5年3月、鉄門の向かいの民有地を東京大学が買収した。上の図が買収直後の状況を示している。鉄門はまだあるが、その向かいの民有地が「大学用地」と記されている。本話冒頭に掲げた参謀本部陸軍測量部の「五千分一東京図測量原図 本郷区本郷元富士町近傍」と較べていただきたい。下宿「上條」があったと思しき一角を東京大学が取得したのである。やがて Ⓑ の東側が内外の境界線となり、西側の鉄門前までの道路は東大構内に飲み込まれ、鉄門も撤去されたのは大正8年か9年と見られる。『東京帝国大学一覧』各年版には巻末付録に本郷地区平面図が掲載されているが、その図から鉄門が初めて消えるのは大正9年版であり、その版の「沿革」の大正8年のところには、「11月本学本郷龍岡町用地のうち121坪余を新道路敷に提供し、右交換所管換により、廃道路に属する同所本富士町及び龍岡町の土地552坪余を本学の敷地に加う。是、本学の用地に病室等増築のため、本学の敷地と接続を要するがためなり」とある。要するに Ⓑ は買収したままでは公道を挟んだ飛び地になってしまっているので、 Ⓑ の東側部分を道路に供出し、代わりにもともとの公道を東大の敷地に取り込んだ、ということである。

それから80年以上経って、東京大学医学部創立150周年を記念して鉄門が復元された。ただし本来の鉄門の場所も「上條と云う下宿屋」の一角も東京大学の敷地内に呑み込まれてしまったのだから、復元位置は東に30mずれることになったのである。

(第11話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)