第6話 ミュルレルの着任と相良知安の晩年〜医学教育体制の整備〜

佐藤尚中の登場

薬研掘不動院(東京都中央区)

薬研掘不動院(東京都中央区)

医学校兼病院は明治2年6月大学校分局となり、12月には大学東校と改称された。取締(事務長)の石神良策がウィリスとともに鹿児島に去ると、医学取調御用掛の岩佐純、相良知安の二人は順天堂第二代堂主の佐藤尚中(しょうちゅう、たかなか)を校長に迎えた。

順天堂は、長崎でオランダ医学を学んだ佐藤泰然が天保9年[1838年]に江戸薬研掘(現在の中央区東日本橋2-6-8の薬研掘不動院の境内)で医学塾「和田塾」を開いたことから始まる。天保14年に下総佐倉(千葉県佐倉市)に移り「順天堂」を開設した。佐倉藩主は「蘭癖大名」の堀田正睦(まさよし)で泰然を厚遇し、藩士の地位を与えた。

幕末の順天堂は外科で有名であった。『懐旧九十年』の石黒忠悳(ただのり)はこの頃の西洋医学教育所についてこう述べている。

この江戸の下谷和泉橋通りの医学所のほかにその頃西洋医学を学ぶ場所としては第一に長崎の精得館があります、これは官立の医学伝習所兼病院です。オランダ教師のもとに規則正しく学問研究と実験をやって有名でありました。次に大阪の緒方洪庵の塾、ここは蘭書を読むことが専らであったゆえ、医学者ではない福沢諭吉、寺島宗則、佐野常民のような人々が塾生にありました。(中略)下総佐倉には佐藤家の順天堂があります、ここは純粋の医学塾で殊に外科においては日本一と称せられ、規則正しい学問は第二としても、実験の材料の多かったので、精得館と東西において相対し、医学研究の牛耳を取ったものです。

佐倉順天堂記念館(千葉県佐倉市)

佐倉順天堂記念館(千葉県佐倉市)

佐藤泰然の実子には良順がいた。第2話で述べたように彼は、泰然刎頚の友・松本良甫(りょうほ)の養子となった。彼の長崎留学、江戸医学所改革については第1〜3話で述べた。明治になって外交官、外務大臣として活躍した林董(はやし・ただす)は泰然の五男である。

第二代堂主の佐藤尚中は下総小見川藩(現・千葉県香取市)の藩医の子で、山口舜海と称していた。順天堂に入門し、門人中の傑出ぶりを買われて佐藤家の養嗣子となり、佐藤舜海、のち尚中と称した。長崎の医学伝習所(精得館)でポンペに学び、帰郷して佐倉藩の医制改革を実施した。

この尚中を校長に迎えた岩佐、相良の二人は佐倉の順天堂と長崎の精得館で医学を学んだ。二人にとって尚中は、師であり、同窓生でもあるという関係である。当時の日本の西洋医学界で最も著名な尚中を「大博士」として遇した。これについて大学本校から、「こちらでは博士は中博士しかいないのに」と猛反対があったが、東校側ではこれに耳を貸さなかった。

佐藤尚中肖像(佐倉順天堂記念館)

佐藤尚中肖像
(佐倉順天堂記念館)

明治3年閏10月、佐藤校長の下で校則が制定された。この規則の特徴は、生徒を正則生と変則生に分けたことである。正則生は洋書で学び修業年限5年、変則生は訳書で学び修業年限は3年である。この2つの課程の併置は、本格的医学教育を受けた医学研究教育・医療行政のエリートを養成する一方で、修業年限の短い変則課程によって臨床医の速成を急ぐべきだという考えに基づくものである。日本全国に西洋医学を学んだ医師を一刻も早く十全に配置することが重要と考えていたのである。

当時の西洋医の数は決定的に少なかった。明治7年の調査では、開業医数28,262名中、西洋医はわずかに5,247名、医師の8割が漢方医という状況だったのである。西洋医の速成・量産が最優先の課題だと考えるのは当然である。

ところが後で述べるようにドイツから招聘した軍医はエリート教育のみの校則に変更し、変則課程を廃止してしまう。これに不満を持った佐藤尚中は校長を辞任してしまう。そして明治6年、下谷練塀町(JR秋葉原駅近く)に順天堂医院を開院し、自らの信念に基づいた医師養成を行うのである。明治8年には湯島に移転、これが順天堂大学・病院の現在の地である。