文学散歩【8】太宰治、仏文黄金期のはぐれ者(その1)

似ても似つかぬ銅像

その銅像であるが、肖像写真と銅像の顔はあまり似ていない。なにか田舎の好々爺のごとくなのだ。

浜尾の第2期総長時代に学生だった辰野隆(たつのゆたか)はこう言っている。(辰野については次回詳しく述べることになろう)

その銅像を眺める度毎に、在りし日の先生とは似ても似つかぬ姿だと思わぬためしはない。率直に言えばこの銅像は浜尾先生ではないのだ。食えない狸爺(たぬきじじい)的総長が年度がわりの予算について思案しているようでもあり、総長の椅子も一時の腰掛としてはまんざらでもない、と云ったような政治家的面相が、観る者を親しましめないのである。その昔、僕等が慈父の如く懐かしがった先生の特質がこの銅像には殆ど現われていない。(「忘れ得ぬ風丰」)

つまり「制作者は浜尾先生という仁(ひと)を知りもせず、見もせず、その人格の香りに触れなかったアルティストに相違ない」というわけだ。

浜尾総長を辰野は「名総長」と呼ぶ。人格者であるが、訥弁である。「諸君は……身体の……健康を……壮健にし……」といった具合である。また話が長い。陸軍が一年志願兵制度(徴兵制における高学歴者に与えられた特典)を廃止しようとしたとき、それは国家の由々しき損失であると、「同じ言説を、幾度となく繰り返」す「終わりなき訥弁」に、ついに陸軍当局も降参して制度廃止は断念したという。

ちなみに「総長」と呼ぶようになったのは明治19年に帝国大学となってからで、それ以後130年の歴史の中で2度総長に就任したのは浜尾と山川の2人だけである。

銅像の作者は堀進二という彫刻家。太平洋画会研究所で彫刻を学んだ。東大工学部の講師(担当科目は彫塑)をしたこともあるがそのときには浜尾総長は不慮の事故で泉下の人となっていたので、「人格の香り」に触れたことはなかっただろう。

さて、「われ」が行き着いた「庭園」とはもちろん三四郎池を囲む育徳園である。「三四郎池」という通称は戦後に広まったらしい。それまでは単に「池」と呼ばれていた。

池には鯉と緋鯉とすっぽんがいる。五六年まえまでには、ひとつがいの鶴が遊んでいた。いまでも、この草むらには蛇がいる。雁や野鴨の渡り鳥も、この池でその羽を休める。

なにか名所案内のようなサービス満点の記述だが、これだけの動物が今もいるのだろうか。

「三四郎池のランドスケープ・リノベーション(SiLR)」という2007年から始まった学生の企画活動のホームページには、「コイ、ニホンスッポン」などが目視で確認されたとある。ただここにも今は外来種の魚が多数生息するようになっているらしい。

さて「われ」はこれからいよいよ試験を受けに行くが、この続きは回を改めて述べよう。