第4話 東大医学部の起源 医学校兼病院時代〜医師養成制度の始まり〜

明治政府による医学教育・医師養成制度の整備

東大医学部の名称の変遷
年月 名称
安政5年[1858] 5月 種痘所
文久1年[1861] 10月 西洋医学所
文久3年[1863] 2月 医学所
明治2年[1869] 2月 医学校兼病院
6月 大学校分局
12月 大学東校
明治4年[1871] 7月 東校
明治5年[1872] 8月 第一大学区医学校
明治7年[1874] 5月 東京医学校
明治10年[1877] 4月 東京大学医学部
明治19年[1886] 3月 帝国大学医科大学
明治30年[1897] 6月 東京帝国大学医科大学
大正8年[1919] 2月 東京帝国大学医学部

石黒の回想では医学校兼病院の評議会で医学教育の本格開始が決定されたように書かれているが、これは明治日本全体の医師制度の確立へ向けた処置のひとつであると言える。明治初年の新政府の施策を整理しておこう。

新政府の施策
明治元年3月 西洋医学採用の被仰出書(おおせいだされしょ)
明治元年5月 長崎の精得館の接収
明治元年6月 東京の医学所の接収と復興
明治元年7月 横浜病院の東京移転=大病院の成立
明治元年12月 医学奨励・医師試験導入予告の布告
明治元年12月 大坂府仮病院の開院
明治2年1月 医学取調御用掛の任命(相良知安と岩佐純)
明治2年2月 医学所と大病院の合併=医学校兼病院
明治3年2月 大坂府医学校と長崎県病院医学校を大学所管とする(翌年文部省所管)
明治5年8月 学制の発布、文部省に医務課を設置
明治6年4月 学制第二編の布達
明治7年8月 医制の三府(東京・京都・大阪)布達

明治6年の「学制第二編」には専門学校の一部として医学校についての規定がある。明治7年の「医制」は医療・衛生の制度を初めて定めたもので、その中に医学教育、医師養成についての規定もある。つまり医学校の設置基準はこの時(学制第二編と医制の布達)になって初めて定められたのであり、その内容は、東京や長崎の官立医学校の規定とほとんど同じ内容だった。

明治初期の数年間の官立医学校における教育は試行期間であり、そこで出来上がったカリキュラムをモデルとして設置基準が定められたのである。東京の医学校兼病院における教育の本格的開始は、医学教育・医師養成制度の国家的整備のための第一歩であったと言えるだろう。