文学散歩【5】地震学者大森博士と谷崎潤一郎

第一大学区第一中学区第一番小学

谷崎は「病蓐の幻想」でも大森の著書を引き合いに出している。大森房吉が当時の地震学の権威であったのはもちろんだが、実は自分の出た小学校の先輩であることとも関係しているのだろう。

私の何年生の時であったか、地震学者の大森房吉博士が本校の卒業生であるということで、或る日 —— たぶん彼が学位を授けられた時か、欧米の留学から帰朝した時かであったろう、—— 学校に見えて、全校の生徒を運動場に集めて一席の訓話をしたことがあった。(「幼少時代」)

日本橋蛎殻町(現・日本橋人形町1丁目)に生まれた谷崎が阪本小学校に入学したのは明治25年。当時谷崎一家は茅場橋の南に住んでいた。「坂本町という町名はなくなり、兜町に合併されてしまったが、あの小学校はもとの名前のまま従来の位置に建っている」(「幼少時代」)と谷崎が書いたのは昭和30年のことだが、平成の今日でも同じ日本橋兜町15にある。

「幼少時代」の執筆は、「完全に忘却の彼方に埋没していたはずのことが順々に蘇生(よみがえ)って」(「私の『幼少時代』について」)きたその過去を書き留め再現するいわば“失われた時を求めて”なのであり、「現在こんなにも変わり果ててしまった東京の、明治中葉期頃における下町の情景」(同前)の、かろうじて残存する往時の証のひとつがこの阪本小学校であったのだろう。

阪本小学校の歴史は古く、明治6年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した。明治5年に発布された「学制」によると全国を8つの大学区に分け、その各大学区を32中学区に分割、更に各中学区を210小学区に分け、大・中・小の各学区に1つずつの大学校、中学校、小学校を配置するという構想だった。

実現すれば全国に53,760の小学校ができるはずだったが、これは計画倒れに終わった。しかし明治8年までに24,303の小学校が設置されたということは、全国の小学校数が最多だった昭和32年の26,988校と比べれば、明治初期のわずかの期間にいかに急速に小学校の設置が進んだかがわかる。

中央区立阪本小学校 左手奥の木立は坂本町公園

中央区立阪本小学校
左手奥の木立は坂本町公園

「第一大学区第一中学区第一番小学」とされた阪本小学校は全国の小学校の原点のようなものと言えようか。正面入り口横の案内板には「第一番官立小学 阪本学校」とある。現在の校舎は関東大震災後に建てられた「復興小学校」のひとつ。

東京の下町を歩いていて、モダンな鉄筋コンクリート建築に小公園が隣接している小学校を見かけたらそれは「復興小学校」だと思っていい。それらは東京大空襲を生き延びた、関東大震災と復興の記憶である。ただし少子化のため、現役で小学校として使用されているものは数少なくなっている。