第2話 近代西洋医学教育の始まり 〜長崎大学医学部の発進〜

ポンペの来日と医学伝習の開始

「ポンペと松本良順、その弟子たち」順天堂大学所蔵

「ポンペと松本良順、その弟子たち」(前列右がポンペ、同左が松本良順)順天堂大学所蔵

ポンペ・ファン・メーデルフォルト(Pompe van Meerdervoort)はオランダ海軍二等軍医で、長崎海軍伝習所(日本で最初の海軍軍人学校)の第2期の教官として安政4年[1857]に来日した。長崎海軍伝習所は海軍士官養成のための幕府機関で、オランダ海軍軍人を教官として迎えて設立された。第1期には勝海舟(幕臣)、五代友厚(薩摩藩)、佐野常民(佐賀藩)らが学んだ。ポンペを含む第2期の教官陣はカッテンディーケに率いられて、幕府が建造を依頼した軍艦ヤーパン号(のちの咸臨丸)を操って長崎にやって来た。

松本良順は順天堂開祖の佐藤泰然(たいぜん)の次男。泰然にオランダ医学を学んで育ったが、請われて幕府奥医師の松本良甫(りょうほ)の婿養子となった。自らも将軍御目見(おめみえ)医師となったが、長崎でオランダ人医師から直接医学を学ぶことを熱望していた。嘉永の蘭方禁止令が発効中の時期である。幕府の御典医が蘭方医学を学ぶために長崎に遊学することが許されるわけはなかったが、長崎海軍伝習所の第2期生となれるよう画策する。海軍伝習所の所長・永井玄蕃守尚志(なおゆき)に働きかけ、老中堀田正睦(まさよし)の許可も得た。堀田は「蘭癖」といわれた西洋贔屓で、千葉・佐倉の第5代藩主である。良順の実父・佐藤泰然を佐倉で礼をもって遇した人物である。

ポンペの講義が始まったのは安政4年11月12日[1857年12月27日]で、長崎大学医学部はこの日を開学記念日としている。講義場所は長崎奉行所西役所、現在の県庁敷地内である。ポンペ28歳、良順25歳であった。ポンペの講義は、ユトレヒト陸軍軍医学校で学んだ時の自らのノートをもとに進められた。物理学・化学から始まって、繃帯学、解剖学、組織学、生理学、病理学、内科学、外科学、眼科学へと進む。それまでの医学書の解読をするつまみ食い的な学習とは全く異なる体系的教育だった。のちには解剖も行った。

松本良順は諸藩にも呼びかけて聴講者を募った。蘭方禁止令中である。諸藩士が蘭学講義に参加することはできない。そこで、すべて自らの門人ということにして聴講させた。良順はポンペを補佐し、講義録を作成し、他の学生には夜に補修を施した。