第1話「種痘所」から「医学所」へ 〜東京大学医学部の起源〜

緒方洪庵の死去と松本良順の改革


しかし「種痘所」がお玉ヶ池にあったのはわずか半年だけ。貰い火で全焼してしまったのである。

一時伊東玄朴の家に機能を移していたが、再建されたのは安政6年[1859]、場所は神田和泉橋通、現在の台東区台東1丁目28番。伊東玄朴邸のあった台東1-30(台東1丁目交差点そば)の歩道に、台東区教育委員会が設置した玄朴旧居と種痘所跡の案内板がある。

種痘所はワクチン接種のみでなく、蘭方医の研修育成も行った。一方幕府は将軍家定の治療に蘭方医を当たらせ、また嘉永の蘭方禁止令も解除し、西洋医学の重要性を認識していった。

また漢方医陣営のドン、多紀楽真院も泉下の客となった。こうして万延元年[1860]、種痘所は幕府直轄の機関となる。教育機関としての性格が強くなったため文久元年[1861]に「西洋医学所」と改称、その2年後には「医学所」と改めた。その翌年初代頭取の大槻が病床に着いたため、幕命により大阪から適塾の緒方洪庵が呼び出されて頭取に就任した。

緒方は、学生による輪読・輪講・討論などの学習法を導入した。これは『福翁自伝』などで紹介されているまさに適塾式学習法である。ところが文久3年[1863]緒方が死去し、松本良順(りょうじゅん)が第三代頭取に就任すると、適塾式は廃止されて、講義中心の新しい教育方法が取り入れられることになった。

当時西洋文明について学ぼうとすればオランダ語を学ぶことから始めるのだが、蘭語学習の場は医家だった。福沢諭吉が医者の緒方洪庵の門に入ったのもそのためだ。当時の医学所も同様で、生徒は必ずしも医師志望の者とは限らなかった。「医学校もまた文法を学び難文を解するを以て緊急要事とせり」という状態だった。

頭取になった松本良順はさっそくその教育内容、教育方法の大改革を断行した。「専ら究理(物理)、舎密(化学)、薬剤、解剖、生理、病理、療養、内外科、各分課を定めて、午前一回、午後二回、順次その講義をなし、厳に他の書を読むことを禁じたり」というのが改革内容である(『蘭疇自伝』)。

この新たな教育法を松本良順はどこから学んだのか…。当時医学所で学んでいた池田謙斎(のち東京大学医学部初代綜理)はその講義について「松本は当時ポンペの直伝で色々講釈をやっていた」と回顧している(『回顧録』)。
良順の教育法はポンペの教育法である。ポンペとはいかなる人物か。それを知るには、江戸で「種痘所」が開かれるより前の安政4年[1857]の長崎に赴かなければならない。

(第1話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)